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【訃報】東映 尾崎行雄 死去

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【訃報】東映 尾崎行雄 死去













かつて東映、日拓(現日本ハム)でプレーし、その剛速球から「怪童」との異名をとった


尾崎行雄(おざき・ゆきお)氏
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が13日午前8時23分、肺がんのため都内の病院で急死した。68歳だった。


尾崎氏は浪商(現大体大浪商)2年だった61年夏の甲子園で優勝。


そのまま中退して東映に入団し、1年目の62年に20勝を挙げて新人王に輝いた。


その直球は最速160キロを超えていたとの伝説を持つ。先月になって体調不良を訴え、今月7日に入院。


それから1週間で帰らぬ人となった。


昭和の時代に異彩を放った、太く短かった剛球人生。野球の神様は、何をそんなに急いだのか。


尾崎氏の病状は、担当医が驚くほど急変したという。


体調不良を訴えたのは5月15日。


今月5日に最初の精密検査を受け、7日に都内の病院に入院したばかり。


そして7日目を迎えたこの日朝、

勝子夫人(68)、長男・力(ちから)さん(45)ら家族に見守られながら、静かに息を引き取った。


「本当に突然で…。急でした。きのうも午前2時に病院から呼ばれて…。


昔から病院が嫌いで、肩を壊した時も、病院には行かない人でした」


東京都台東区内の自宅で、力さんは目に涙を浮かべた。


68歳。「怪童」として大きな脚光を浴びたが、幸福な野球人生は長くは続かなかった。


引退後は台東区内で欧州料理レストランを経営。監督、コーチなどで再びユニホームを着ることはなく、


評論家などの依頼も全て断っていた。


それでも時間があれば、「楽しい野球がしたい」と地元で少年野球を熱心に指導。


草野球で自らマウンドに上がることもあった。


甲子園では柴田勲(元巨人)擁する法政二と3度の名勝負。


61年夏に全国制覇を果たすと同年11月に浪商を2年で中退し、


当時で5000万円ともいわれる高額の契約金で東映に入団した。


開幕時に17歳だった翌62年の入団1年目、20勝を挙げ史上最年少の18歳で新人王。


65年には27勝で最多勝のタイトルを獲得。


球宴で対戦した長嶋茂雄(巨人)が「速い!あんな速い投手はセ・リーグにいない」と驚いた直球は、


160キロを超えていたとも言われる。


しかし酷使の影響もあり、6年目の67年夏に右肩を故障。


68年以降の6年間でわずか3勝しか手にできず、29歳の若さで引退した。












◆尾崎 行雄(おざき・ゆきお)
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1944年(昭19)9月11日、大阪府泉大津市生まれ。

60年に浪商(現大体大浪商)に入学。

1年夏からエースを務め、3季連続甲子園出場。

2年夏には全国制覇を果たした。

また、法政二・柴田勲(元巨人)との3度の対戦は名勝負として語り継がれる。

その後、17歳で高校を中退し、62年に東映(後に日拓、現日本ハム)に入団。

同年に20勝9敗、防御率2・42の好成績を挙げ、球団初のリーグ制覇に貢献し、日本一も達成。

新人王にも輝いた。65年には27勝で最多勝を獲得。

上体を揺らし反動をつけて投げる独特の投げ方は、ロッキング・モーションと呼ばれた。

73年に29歳で現役引退。通算成績は364試合で107勝83敗、防御率2・70。














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